3.11
2011年3月11日あの忘れられない日、僕は駿河台の明治大学のタワービルのすぐ裏にある喫茶店で阪井教授達と打ち合わせをしていた。突然の揺れに外に避難して見上げたタワー棟ではちょうど窓ふきのクレーンがぶら下がっていて作業員が乗ったままで大きく左右に揺れていた。
メンバーはそこで解散し数名のメンバーで別の喫茶店に入って打ち合わせの続きをしようとしたが余震が凄くてその以上さに一緒にいた一人がワンセグでニュースを見るとそこには宮城県のどこかの町が津波に襲われている映像が。現実の事とは思えないまま朦朧と駿河台から江戸川橋辺りまで歩いて家に向かった。携帯電話は輻輳していてつながらない。メールも無理だった。家族の安否が心配でしかたなかった。
運よく客を降ろしたばかりのタクシーに乗れたので一緒に帰ってたメンバーと一緒に乗って家まで帰った。
ちょうど網走の大学から帰ってきていた長男が自宅にいて、次々と家族が帰宅してきた。僕は帰ってすぐに車のガソリンを入れにいったので混雑は避けれた。
それらから2日間位はただただテレビを見て被災地の惨状に心を痛めながら、連絡がつかない青森の実家、仙台の親戚のことを心配していた。
そして3日目の夜、ふと思った。
「ただニュースを見て、被災地の臨場感を味わっててどうする。自分に出来る事をすべきじゃないか?」
そして「つむぎプロジェクト」の企画書を書きだした。
最初は「つむぐプロジェクト」だった。
切れた糸を紡いでいく。離れ離れになった家族や友人、遠方で心配している家族や友人、大切な思い出など、切れた糸を紡いでいくというコンセプトだった。
丁度数か月前に仙台で従兄弟の長男の結婚式の時に、ミュージシャンだった新郎が生ギターで中島みゆきの「糸」を歌ってくれて、それがとてもいい曲だったのでipodに入れていてそれを聴きながら企画書を書いたので、「糸をつむぐ」というイメージが情報通信に携わっている自分にマッチしたんだと思う。
こうして「つむぎプロジェクト」は始まった。